「仲道郁代の私的ベートーヴェン演奏論」より

デビュー40周年とベートーヴェン没後200周年が重なる2027年に向けて、10年にわたる「The Road to 2027リサイタル・シリーズ」を進行中のピアニスト仲道郁代さん。9年目となる2026年の5~6月には、「音楽の哲学」と題したリサイタルでベートーヴェン《ピアノ・ソナタ》の第30番~第32番などを取り上げます。
ここでは、仲道さんが月刊誌『ムジカノーヴァ』で執筆した隔月連載「私的ベートーヴェン演奏論」から、「ピアノ・ソナタ第31番」の回を抜粋でお届けします(2019年9月号掲載)。
最も意味深なソナタ
第31番作品110は、ピアノ・ソナタの中でも、特に他曲のメロディーの引用が多い曲と言えます。
ベートーヴェンのソナタが、基本的に、モチーフ(部品のような2つ、3つの音の連なり)の展開で成り立っていることを考えると、そこに、他曲の“歌謡的”なメロディーを挿入することは難しいのではないかとも思えます。とすると、なぜ敢えて、これらの“歌”を挟み込んでいるのか、ということに興味を覚えます。
まず、引用されていると考えられるものたちを見てみましょう。
第1楽章の第1テーマは、グルックのオペラ《オルフェオとエウリディーチェ》の〈われエウリディーチェを失えり〉からの引用と思われます。オルフェオが妻エウリディーチェを失ったと嘆く曲です(譜例1)。

第2楽章の冒頭は、オーストリア民謡《可愛い子猫》からの引用(譜例2)。

第2楽章スケルツォ後半にも、俗謡《俺はバカだ、お前もバカだ、皆バカだ》の引用があります(譜例3)。

そして最後、第3楽章の「嘆きの歌」。バッハの《ヨハネ受難曲》のイエスの死の場面〈こと成れり〉との類似も見て取れます(譜例4)。

ざっと並べただけでも、この曲がどんな方向性の曲なのかの想像が膨らむというものです。
そして、特筆すべきは、第1楽章冒頭です(譜例5)。

「con amabilita sanft」と書かれています。amabilita(愛をもって)などという指示は、ピアノ・ソナタの中で唯一ここにのみ出てきます。
そして「Moderato cantabile molto espressivo」。愛と優しい心に満ちるための、あらゆる指示を連ねているのです。
このような楽想から始まり、妻を失ったオルフェオ、自分はバカだという俗謡、イエスの死の「嘆きの歌」ヘと連なる。
この曲には献呈者は書かれていませんが、実は、ベートーヴェンの“不滅の恋人”であったと言われているアントーニエ・ブレンターノヘの献呈を予定していたようです。
作家であリベートーヴェン研究家であるロマン・ロランは、この曲を含む最後の3つのソナタを「ブレンターノ・ソナタ」と呼んでいます。
なんとも、想像力を掻き立てる材料に満ちた作品です。
今回は、不滅の恋人・アントーニエを念頭におきつつ、私的な解釈を行ってみたいと思います。
第1楽章 遥かなる恋人の思い出と心の痛み


